母とスプーン

昭和48年生まれである。
父が36歳の時に僕は生まれた。
父は日本人で知らない人はいないといっていい大企業で既に部長職についていた。
先日話したシロと僕という記事の中で5棟ある社宅に済む権利を持つのは部長職以上のみの家族であった。

といってもボロボロの家で、和式便所でゴキブリ、ネズミは当たり前。庭にはモグラが時々誤って表にでて朽ち果てているという状況だった。

偶然にも僕はいま所属している会社を辞めようとしているのだが、最後の顧客は親父の会社のグループ会社である。子会社だがそれだけでも数万人の規模がある。親父は結局、執行役員の手前までなりかけて、子会社に出向となり、そこの社長となっていた。かつて幸せなサラリーマン人生だったと語っていた。

その親父と僕は大学生の頃、NHK特集(NHKスペシャルの全身番組)で「あるサラリーマンの死」という番組を一緒に観た。タイトルでWebを調べてみたが、みつからず本当にそういうタイトルだったかは今は定かではない。

内容としては、課長職に抜擢された30代半ばの男性が1億円程度のプロジェクトで、プラントの完成を目指すという主旨のものだが、途中発注先のミスや自身の体調不良等で、どんどん遅延してしまい、その責任をとらされ降格されてしまう。

そして、ある時置き手紙だけ置いて、失踪してしまい、家族全員に心当たりのあるところが中々みつからないままに、遂に彼が発見されたのは高校の修学旅行で訪れた東北のある箇所の松林で首を括った状態だった。

細部については失念しているが、上記のようなあらましだったと思う。

その番組を観ていた頃、十分世の中の景気は悪くなり始めていて、僕は就職氷河期を控えて、何もない自分に戦々恐々としているところだった。

父と話していると、父はこういった。

「アホや、こんなやつ。たかが一億なんてゴミみたいな金で、首括るなんて、死ぬくらいなら会社なんか辞めたええんや。」

聞いた瞬間とても驚いたのを記憶している。親父はそれこそ猛烈サラリーマンで僕が小林さんの件で入院するまで有給休暇を取得したこともなく、姉兄僕の三人を大学に行かせ、僕に至っては大学院まで修了させている。

そんなサラリーマン一筋だった親父からそんな言葉がでることにとても驚いた。

そして、その後の僕のサラリーマン人生を支えてくれている言葉になっている。
僕は死なたくなるほど嫌になる前に会社を辞めてきた。親父のおかげである。

父の話しばかりしてきたが、主題は母である。

母は父を愛してきた。

父が僕が10代初めの頃、2年ほどドイツに単身赴任した際に母はおかしくなった。
更年期障害の影響もあったのだろうが、子供の僕にもそのおかしさは感じ取れた。

中学1年のある時、帰宅すると母が自宅のスプーンを磨いていた。
僕は一瞬にして、起きようとしていることの全てを理解した。
そうこれから間もなく荷造りをして、引っ越しをするというサインなのである。

このサインは母親が送っているわけではなく、自然に発せられているものだ。

引っ越しのごとに苦労してきた僕は、次の日から学校給食が食べられなくなった。
やっと新中学で新しい友達ができ、好きな女の子もできたのに。

僕は兵庫県から埼玉県に引っ越しすることになった。

小1の頃は、埼玉県から兵庫県に引っ越した。その際に言葉の問題で幼いながらに大層苦労した。
今度もそれと同じことがないように、僕は一生懸命テレビで標準語を勉強した。

転校して一年目。

埼玉県北部に位置する僕の出身中学の担任の話す言葉は訛りが強すぎてほとんど聞き取れなかった。

今、標準語圏以外の田舎に済むことに強い抵抗感があるのは、そういった経験からだろうと思う。
一方で父と別れる必要が亡くなった母はやがて仕事を始め、いきいきと生活し始めた。

約30年後今月になって父が認知症であるとの診断が下った。
母はまた深く落ち込んでいる。

スプーンを磨いてあの頃に戻れるなら、そうさせてあげたい。
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木彫りのテープカッター

中学二年生の時の美術のテーマだった。確か1、2ヶ月かけてフラットの木の板から、なにかしら自身でデザインしたテープカッターを造形するという授業の一環だ。

僕はテニスのラケットを選んだ。表面に自身の好きなキャラクターを付けようとしたが、美術の教師の反対にあって辞めた。今思えば美術の先生の判断は正しかったと思うが、完成後持ち帰り、早々に母が廃棄してしまったので、どちらでもよかったといえる。母のそういう性格を知っていたので、あまり熱が入らなかったのかもしれない。

しかしながら、僕の左隣の席の新井さんのモードは違った。

彼女はカメをモチーフにしていた。
モチーフの段階で既に失敗していたが、別に他人の作品に口を出すほど美術に熱意があったわけではなかったし、彼女と口を聞いたこともほとんどなかったので、別段口出しすることはなかった。

美術の時間は2時間ぶち抜きで、3時間目、4時間目がそれに当てられていたように記憶している。

何回目かのその課題の授業の3時間目の途中だったと思う。

新井さんがいきなり、叫び出した。

「なぜ私の木だけ上手く彫れないの!」

彼女は泣きながら、彫刻刀をガスガスと自身のカメの甲に突き刺し始めた。

僕はその彫刻刀の先がいつ自身に向いてくるのかが恐ろしくて、まったく気づかないフリをして、僕自身の彫刻刀でラケットのガットの部分を無心に削った。

やがて先生が駆け寄ると、新井さんは猛ダッシュして、女子トイレに籠城してしまった。

美術の先生は籠城に付きっきりになってしまったため、僕ら生徒は、ほぼ自習時間のような扱いになった。

しかし、昼休みを過ぎても新井さんはトイレから出てこようとしなかった。
長く籠城するには最適であったろう。トイレ休憩の必要がないのだから。

たっぷり6時間目の途中まで、給食も食べずに付きあわせられたと思う。

彼女はぐったりとうなだれて、先生に支えられて投降してきた。

奇妙だったのは、翌週以降のことで新しい木の板を与えられた新井さんは何事もなかったかのように嬉々として、またあのカメを彫り出しているのである。

友達と談笑を交わす余裕もある。

我々に与えられたあの恐怖はなんだったのか?

随分と長じてから、キーボードやディスプレイ、電話などを叩き壊す人々が世界中に監視カメラで記録されているところをYouTubeなどで見ると、新井さんは特別に異常なわけではなかったのであろう。

ただ、注意しなければならないのは、新井さんの持っていた彫刻刀は、包丁にも、ハンマーにも、日本刀にもなり得るのだ。

そして、刺されるカメのほうは、人間を含むその他生き物になり得る。

そういう教育上のケアをされなかった僕らの世代は、他の世代より人数が多いこともあるが、人を多く簡単に傷つけやすい傾向がある気がする。

新井さんはどうしているだろうか?
彼女が凶器を持たずに、狂気にも陥らず、ニコニコと生活してくれていることを切に祈りたい。