ヒッチハイクと人生

最近Twitterブログ界隈では、ヒッチハイクでここまで乗せてもらいましたー、などというつぶやきや記事を頻繁に見かける気がする。

その度に僕は勝手に苦い思いをする。

どのような思いか。。。

僕は、甲子園優勝投手であると勝手に思っており、その甲子園のあちこちで立ち小便されているような気になるのだ。

何をもってヒッチハイクについて、僕の中にそこまでの自尊心を築き上げることができたのか?

まずはフロンティアさである。僕は僕より前にヒッチハイクをしていた人間を超人ハルクしか知らない。
僕の世代では、子供の頃に超人ハルクの米国の実写ドラマシリーズ放映されていた。

その中の彼は毎エピソードごとに新しい土地にヒッチハイクで到着し、そこで悪者をハルクとなって服をビリビリにしながらもやっつけ、最後には服を新調して、ヒッチハイクしてどこかに旅立っていくのだ。

ほぼ毎回最後の最後のシーンには、必ず歩きながら親指を上げて車を誘う。その哀愁を帯びた姿に表現しようのないカッコよさを感じた。

そこから10数年僕は途中「母をたずねて三千里」の影響を受けたりなどしながら、1人でヒッチハイクをするようになった。
東京から鹿児島、東京から北海道、そしてオーストラリアでブリスベンシドニー、メルボン、アデレードアリススプリングスエアーズロック、そして帰路ブリスベンまで逆ルートでヒッチハイクした。

折り返し地点のエアーズロックに高所恐怖症のためビビリまくりながら、登頂し、岩のかけらを失敬した。
帰京してから、大学の友人などにおみやげとして配りまくったため、僕の手元にはなくなってしまった。

数ヶ月ほど後に、朝日新聞を読むと、エアーズロック現地に持ち帰った岩が世界中から返送されているのだそうである。
岩を持ち帰った人間には呪いがかかると世界的に信じられているらしいのだ。

僕は不幸を持ち帰って分散したうえで、自分の手元に全くもっていないという最悪のパターンにしばし動揺したが、しばらくしてすっかり忘れてしまった。

その二年後くらいに大病をするのだが、それはその罰があたったのかもしれない。

僕がオーストラリアから帰ってきて、ほどなくして電波少年という番組で猿岩石といういまは知らない人はいない有吉という芸人とその相方がユーラシア大陸横断ヒッチハイクをやり始め、それが爆発的な人気となった。
それに影響を受けて、国内でもヒッチハイクをやり始める人間が雨後の竹の子のように激増した。

ちなみに過去に遭遇した日本人のヒッチハイカーは1人だけだった。

僕は百恵ちゃんがマイクを置いて引退したかのように、親指を置いてヒッチハイクを引退死体気持ちになった。
そして、それ以来ヒッチハイクをすることはなくなってしまった。

そう僕にとっては、甲子園は高校生しかでられないのと同じように、卒業した僕にヒッチハイクはも手の届かないもになってしまったのだ。

集めた甲子園の土の代わりとなるエアーズロックの岩は呪いがかかっている上に手元にもない。
写真は数百枚あったが、実はとある事情で捨てられてしまった。

ヒッチハイクを辞めてから何年たっても、たまにその時のことを思い出すことがある。
ある時、ヒッチハイクというのは、途中の一台でも欠けてしまうとその後の流れは損なわれて同じ行程は再現できない。
僕がやったヒッチハイクの旅はそういう奇跡的なつながりで成立しているのだなぁと思ったりした。

いや、待てよ。それってヒッチハイクに限ったことか?

いまここで信号待っていたから車に轢かれそうになったのかもしれない。
自業自得とはいえ、この女の子とつきあわなければ、こんなことにならなかったかもしれない。
病院に入院したからこそ、小林さんと出会えたのだ。

僕は今も奇跡の一連のつながりの中だけで生きているのだ。
どんな些細のことでもそれが欠けると人生の行程が変わる。運命が変わるのだ。

ただし、それは残念ながらコントロールできない。因果律は明確ではないからだ。
10円玉を拾って、交番に届けたところで、その善意と労力に見合っったリターンが返ってくる保証はない。

できることは刹那的なこの人生一瞬一瞬を大切に生きるということだけなのである。

志半ばで亡くなっていった人々が周りにいても、いなくても、いまの自分を大切に生きるのが僕たちの使命なのである。

木彫りのテープカッター

中学二年生の時の美術のテーマだった。確か1、2ヶ月かけてフラットの木の板から、なにかしら自身でデザインしたテープカッターを造形するという授業の一環だ。

僕はテニスのラケットを選んだ。表面に自身の好きなキャラクターを付けようとしたが、美術の教師の反対にあって辞めた。今思えば美術の先生の判断は正しかったと思うが、完成後持ち帰り、早々に母が廃棄してしまったので、どちらでもよかったといえる。母のそういう性格を知っていたので、あまり熱が入らなかったのかもしれない。

しかしながら、僕の左隣の席の新井さんのモードは違った。

彼女はカメをモチーフにしていた。
モチーフの段階で既に失敗していたが、別に他人の作品に口を出すほど美術に熱意があったわけではなかったし、彼女と口を聞いたこともほとんどなかったので、別段口出しすることはなかった。

美術の時間は2時間ぶち抜きで、3時間目、4時間目がそれに当てられていたように記憶している。

何回目かのその課題の授業の3時間目の途中だったと思う。

新井さんがいきなり、叫び出した。

「なぜ私の木だけ上手く彫れないの!」

彼女は泣きながら、彫刻刀をガスガスと自身のカメの甲に突き刺し始めた。

僕はその彫刻刀の先がいつ自身に向いてくるのかが恐ろしくて、まったく気づかないフリをして、僕自身の彫刻刀でラケットのガットの部分を無心に削った。

やがて先生が駆け寄ると、新井さんは猛ダッシュして、女子トイレに籠城してしまった。

美術の先生は籠城に付きっきりになってしまったため、僕ら生徒は、ほぼ自習時間のような扱いになった。

しかし、昼休みを過ぎても新井さんはトイレから出てこようとしなかった。
長く籠城するには最適であったろう。トイレ休憩の必要がないのだから。

たっぷり6時間目の途中まで、給食も食べずに付きあわせられたと思う。

彼女はぐったりとうなだれて、先生に支えられて投降してきた。

奇妙だったのは、翌週以降のことで新しい木の板を与えられた新井さんは何事もなかったかのように嬉々として、またあのカメを彫り出しているのである。

友達と談笑を交わす余裕もある。

我々に与えられたあの恐怖はなんだったのか?

随分と長じてから、キーボードやディスプレイ、電話などを叩き壊す人々が世界中に監視カメラで記録されているところをYouTubeなどで見ると、新井さんは特別に異常なわけではなかったのであろう。

ただ、注意しなければならないのは、新井さんの持っていた彫刻刀は、包丁にも、ハンマーにも、日本刀にもなり得るのだ。

そして、刺されるカメのほうは、人間を含むその他生き物になり得る。

そういう教育上のケアをされなかった僕らの世代は、他の世代より人数が多いこともあるが、人を多く簡単に傷つけやすい傾向がある気がする。

新井さんはどうしているだろうか?
彼女が凶器を持たずに、狂気にも陥らず、ニコニコと生活してくれていることを切に祈りたい。

シロと僕

シロの鼻はピンクだった。シロといっても、薄汚れた白っぽい体毛を持つ性格の良さそうな間抜けな顔した野良犬だった。
僕が小学4年生くらいの頃は、社会も保健所もさほどやかましくはなく、シロのような野良犬や野良猫たちは僕の住んでいる社宅のあちこちを徘徊していた。
今現在の首輪が着いていない犬をみかけない時代を考えると、星新一ショートショートを読んでいるような気持ちになる。

シロはどこからともなく現れた。社宅は100棟近くはあっただろうか、マンションタイプではなく、五戸の平屋建てと残り90等ほどの二階建ての家屋がひしめいているようなタイプだった。

僕は五戸のうちの一つの平屋建てに住んでいて、目の前に学校の校庭半分より少し小さくしたくらいの芝生の広場が広がっていた。
遊具といえば、錆びれたブランコがあるだけで、專ら野球をやるくらいで何の変哲もないただの広場だった。

芝生といえば聞こえがいいが、年間を通じて青々としていることは皆無で、干した藁のような色をしており、冬季にはひどく乾燥してパサパサしていた。

一度母親が家の横でたき火をしたまま放置しておいたところ、その広場に燃え広がり芝生全部が真っ黒に消失してしまったことがある。

子供心にもうっすら知っている太平洋戦争やベトナム戦争を彷彿させる光景だった。芝生、今思えば単なる雑草だったかもしれない植物の回復力は驚異的で、数ヶ月後には何事もなかったのように前の藁色を取り戻していたように記憶している。

その出来事が僕がシロと出会う前だったか後だったのかは定かではないが、シロと出会ったのは、小学生3年生か4年生の頃だったと思う。

昼間広場でボールを投げたり、追いかけっこをしたりして、シロと遊ぶようになり、やがて夜になると広場の近くの我が家にシロはエサを求めてくるようになった。

広場に面した兄貴の部屋には下辺が丁度犬の顔がギリギリ届くか届かないくらいの窓がついていた。

この時期よりもっと小さい頃、僕は兄貴の部屋で、マッチ箱の中に柄がマッチの発火する頭から折れて、その頭の下に柄が5mmほどしかついていないマッチの折れ先を見つけた。

兄貴は優しい男でどちらかというと仲は良かったとは思うのだが、9つ年下の僕は生意気で喧嘩ばかりよくしていた。
その兄がその火薬の頭だけと言っていいマッチに火をつけてみろと言う。
あるいは、僕がこれだったら火がつけられるといったのかもしれない。きっと多分そうだったのだろう。

低能で無鉄砲だった僕は間髪入れずに火をつけた。

当然だが熱くて持っていられない。そこで、兄貴の部屋にあった鉄製の円筒状の当時流行っていたカウンタックなどのスポーツカーが描かれているゴミ箱に火のついたマッチを僕は捨てた。

至極当たり前だが、ゴミ箱の中のものは、あっというまに誘火した。

兄貴も慌てて、そばの窓を開けて、ゴミ箱を外に運び移した。
ゴミ箱は窓の外でキャンプファイヤーのように赤々と燃えていた。

それを見ながら僕はどういうパターンでこの件について、両親から怒られるのかばかり考えていた。
翌朝見てみると、ゴミ箱は鎮火していたものの、どでかい鉛筆の中芯のような物体になっていた。

その窓の外のゴミ箱に関して、どのように両親から怒られたのかは記憶にない。

その窓から、シロにエサをあげるようになるのに時間はかからなかった。
僕には姉と兄がいるのだが、彼女、彼らもシロに同情的で、僕と一緒になにかしらエサを与えてたように思う。

当然のようにシロも僕に懐いてきて、僕が遊びに行くときには必ずついてきてくれるようになった。
相棒を常に引き連れている僕は少年探偵団に入ったような心持ちで誇らしげだった。

シロは僕に極めて忠実で帰宅時に、口笛で呼ぶと勇み走って僕の足元にきて、自宅に戻ると、兄貴の部屋の窓の下に寝転がった。
当時は座敷犬という言葉があるくらいで、野良犬を家にあげるという発想はそもそもなかった。
窓の下に待つシロに夕飯の残りなどをあげるのが僕の日課となっていった。

シロと僕の楽しい時間は数ヶ月ほど続いただろうか。

ある日学校から帰宅すると、いつもいるべきところにシロがいない。
母親に尋ねると、社宅のKちゃんのところがあの犬がかわいいから飼いたいというので、あげたとしゃぁしゃぁと言ってのけた。

母親はこういうところのある人であることは、その時分には十分理解していたので、別段母親に激したりはしなかったが、もちろん寂しさはあった。

ただKちゃんのうちは広場向こうの更に400mほどいった2階建ての社宅のほうで、会いに行く気さえあれば、いつでも会うことができた。そのこともあって涙を流すほどの悲しみは覚えなかったと思う。

その後、小学生に大きなイベントが起った。

ファミコンの発売である。
いや、もしかしたらその前に発売されていたかもしれないが、僕らは虜になっていた。

毎年高学年がリーダになって、広場で野球チームを編成するのだが、僕の代で完全にそれが途絶えた。
皆が皆ファミコンで夢中に外遊びを極端に減らした結果である。

そんなこともあって、僕もシロのことを半ば忘れていた。

シロがもらわれていって、数ヶ月たった頃だろうか。
何の気はなしに、シロを見に行く気になった。Kちゃんのうちの側にはいくつか遊具があるこじんまりした公園があり、そこで遊ぶのもよかろうという考えもあったと思う。

シロが遠くに見えた。

シロはスヌーピーが住んでいるようなかわいい犬小屋をあてがわれ、首輪に鎖で繋がれていた。
遠目には幸せそうにみえた。

僕はシロに以前のように近づいて、なでてやろうと試みた。

ところが、数メートルほどの距離に近づいたその時、シロは僕に猛然と吠え始めたのである。

僕は相当なショックとダメージを受け、しばらく何もできないまま立ち尽くしていた。

シロは僕のことを忘れてしまったんだ。
あんなにかわいがっていたのに。
あたらしいKちゃんのお家がいいんだ。
僕なんかもういないほうがいいんだ。

この話の中学生の時、塾の高校受験の国語の作文の演習で書いたところ塾教師に随分と褒められた覚えがある。
そして、僕は長年シロの本心に気づかないままで成長を続けた。

確か、24才で大病をした後くらいだったと思う。

シロは僕のことを忘れていたんじゃない。
僕に怒っていたんだ。
あんなに忠実に一緒に遊んでいたのに。
口笛を吹かれたら必ずそばに走り寄っていたのに。

こんな鎖につながれた生活に、こんな飼い主のところに追いやるなんて、あんまりじゃないか!

それに気付いた日にはしこたま日本酒を飲んだ記憶がある。

この話を10年程前に家内にしたことがある。

シロに再会するくだりで、

「シロが吠えたんだよ。ものすごい勢いで、なんでだと思う?」

家内は、「そりゃ、怒ってたんでしょ」と事もなげに答えた。

僕は改めてシロの気持ちを理解していなかったことに気付かされた。
僕はその日も日本酒をしこたま飲んだ。

シロ。ごめんね。そうつぶやくのが精一杯だった。

母とスプーン

昭和48年生まれである。
父が36歳の時に僕は生まれた。
父は日本人で知らない人はいないといっていい大企業で既に部長職についていた。
先日話したシロと僕という記事の中で5棟ある社宅に済む権利を持つのは部長職以上のみの家族であった。

といってもボロボロの家で、和式便所でゴキブリ、ネズミは当たり前。庭にはモグラが時々誤って表にでて朽ち果てているという状況だった。

偶然にも僕はいま所属している会社を辞めようとしているのだが、最後の顧客は親父の会社のグループ会社である。子会社だがそれだけでも数万人の規模がある。親父は結局、執行役員の手前までなりかけて、子会社に出向となり、そこの社長となっていた。かつて幸せなサラリーマン人生だったと語っていた。

その親父と僕は大学生の頃、NHK特集(NHKスペシャルの全身番組)で「あるサラリーマンの死」という番組を一緒に観た。タイトルでWebを調べてみたが、みつからず本当にそういうタイトルだったかは今は定かではない。

内容としては、課長職に抜擢された30代半ばの男性が1億円程度のプロジェクトで、プラントの完成を目指すという主旨のものだが、途中発注先のミスや自身の体調不良等で、どんどん遅延してしまい、その責任をとらされ降格されてしまう。

そして、ある時置き手紙だけ置いて、失踪してしまい、家族全員に心当たりのあるところが中々みつからないままに、遂に彼が発見されたのは高校の修学旅行で訪れた東北のある箇所の松林で首を括った状態だった。

細部については失念しているが、上記のようなあらましだったと思う。

その番組を観ていた頃、十分世の中の景気は悪くなり始めていて、僕は就職氷河期を控えて、何もない自分に戦々恐々としているところだった。

父と話していると、父はこういった。

「アホや、こんなやつ。たかが一億なんてゴミみたいな金で、首括るなんて、死ぬくらいなら会社なんか辞めたええんや。」

聞いた瞬間とても驚いたのを記憶している。親父はそれこそ猛烈サラリーマンで僕が小林さんの件で入院するまで有給休暇を取得したこともなく、姉兄僕の三人を大学に行かせ、僕に至っては大学院まで修了させている。

そんなサラリーマン一筋だった親父からそんな言葉がでることにとても驚いた。

そして、その後の僕のサラリーマン人生を支えてくれている言葉になっている。
僕は死なたくなるほど嫌になる前に会社を辞めてきた。親父のおかげである。

父の話しばかりしてきたが、主題は母である。

母は父を愛してきた。

父が僕が10代初めの頃、2年ほどドイツに単身赴任した際に母はおかしくなった。
更年期障害の影響もあったのだろうが、子供の僕にもそのおかしさは感じ取れた。

中学1年のある時、帰宅すると母が自宅のスプーンを磨いていた。
僕は一瞬にして、起きようとしていることの全てを理解した。
そうこれから間もなく荷造りをして、引っ越しをするというサインなのである。

このサインは母親が送っているわけではなく、自然に発せられているものだ。

引っ越しのごとに苦労してきた僕は、次の日から学校給食が食べられなくなった。
やっと新中学で新しい友達ができ、好きな女の子もできたのに。

僕は兵庫県から埼玉県に引っ越しすることになった。

小1の頃は、埼玉県から兵庫県に引っ越した。その際に言葉の問題で幼いながらに大層苦労した。
今度もそれと同じことがないように、僕は一生懸命テレビで標準語を勉強した。

転校して一年目。

埼玉県北部に位置する僕の出身中学の担任の話す言葉は訛りが強すぎてほとんど聞き取れなかった。

今、標準語圏以外の田舎に済むことに強い抵抗感があるのは、そういった経験からだろうと思う。
一方で父と別れる必要が亡くなった母はやがて仕事を始め、いきいきと生活し始めた。

約30年後今月になって父が認知症であるとの診断が下った。
母はまた深く落ち込んでいる。

スプーンを磨いてあの頃に戻れるなら、そうさせてあげたい。
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木彫りのテープカッター

中学二年生の時の美術のテーマだった。確か1、2ヶ月かけてフラットの木の板から、なにかしら自身でデザインしたテープカッターを造形するという授業の一環だ。

僕はテニスのラケットを選んだ。表面に自身の好きなキャラクターを付けようとしたが、美術の教師の反対にあって辞めた。今思えば美術の先生の判断は正しかったと思うが、完成後持ち帰り、早々に母が廃棄してしまったので、どちらでもよかったといえる。母のそういう性格を知っていたので、あまり熱が入らなかったのかもしれない。

しかしながら、僕の左隣の席の新井さんのモードは違った。

彼女はカメをモチーフにしていた。
モチーフの段階で既に失敗していたが、別に他人の作品に口を出すほど美術に熱意があったわけではなかったし、彼女と口を聞いたこともほとんどなかったので、別段口出しすることはなかった。

美術の時間は2時間ぶち抜きで、3時間目、4時間目がそれに当てられていたように記憶している。

何回目かのその課題の授業の3時間目の途中だったと思う。

新井さんがいきなり、叫び出した。

「なぜ私の木だけ上手く彫れないの!」

彼女は泣きながら、彫刻刀をガスガスと自身のカメの甲に突き刺し始めた。

僕はその彫刻刀の先がいつ自身に向いてくるのかが恐ろしくて、まったく気づかないフリをして、僕自身の彫刻刀でラケットのガットの部分を無心に削った。

やがて先生が駆け寄ると、新井さんは猛ダッシュして、女子トイレに籠城してしまった。

美術の先生は籠城に付きっきりになってしまったため、僕ら生徒は、ほぼ自習時間のような扱いになった。

しかし、昼休みを過ぎても新井さんはトイレから出てこようとしなかった。
長く籠城するには最適であったろう。トイレ休憩の必要がないのだから。

たっぷり6時間目の途中まで、給食も食べずに付きあわせられたと思う。

彼女はぐったりとうなだれて、先生に支えられて投降してきた。

奇妙だったのは、翌週以降のことで新しい木の板を与えられた新井さんは何事もなかったかのように嬉々として、またあのカメを彫り出しているのである。

友達と談笑を交わす余裕もある。

我々に与えられたあの恐怖はなんだったのか?

随分と長じてから、キーボードやディスプレイ、電話などを叩き壊す人々が世界中に監視カメラで記録されているところをYouTubeなどで見ると、新井さんは特別に異常なわけではなかったのであろう。

ただ、注意しなければならないのは、新井さんの持っていた彫刻刀は、包丁にも、ハンマーにも、日本刀にもなり得るのだ。

そして、刺されるカメのほうは、人間を含むその他生き物になり得る。

そういう教育上のケアをされなかった僕らの世代は、他の世代より人数が多いこともあるが、人を多く簡単に傷つけやすい傾向がある気がする。

新井さんはどうしているだろうか?
彼女が凶器を持たずに、狂気にも陥らず、ニコニコと生活してくれていることを切に祈りたい。